VRに期待すること

最近、友達がVRVRとうるさい。

いや、そうでもないかも。まぁOculus Goを買ったとかで楽しそうだ。

昔の自分なら迷わずもう買ってたと思う。大人になった、というか反省した、というか。(買っただけで遊んでないものを眺めながら)

 

さて、VRに期待するもの、それは「スポーツの練習」である。

正確にはこれから先の触覚へのフィードバックができるようになったVRに期待している。

 

今でもVRを使ったスポーツの練習というのはあるらしい。

モーションキャプチャーVRでの本人視点とかそんな感じですごい臨場感って感じなのかな?

検索したタイトルしか見てないけど視覚情報の精度をあげたって感じだと思った。

 

他には、エアロバイクとVRを組み合わせて観光するものなんかもあるらしい。

これは、実物を使った運動をVRで拡張した感じで、ある意味AR的でもあると思った。ポケモンGOもこのリアル運動+その世界の拡張って感じだね。

 

手だけ、とか一部では実現しつつある触覚に対して任意のフィードバックが出来る機能、これを待っている、というか期待している。

VRで触ったものの感触を返す、というやつ。

 

これが任意の感触で出来るようになったら「水泳」に対して適用されるのを期待したい。

というのも、クロールの本を読んでもさっぱりわからないのだ。

手元にある本を見ると

「水をつかむ」

おう?

「水をとらえる」

はあ。

「水に乗っかる」

???

 

言葉はわかる。言葉はわかるが、何を言っているかわからない。

いや、この本は評判も良いし、これら以外の部分では伝わるように説明も丁寧に言葉を尽くしているんだけど。

それに従って練習とかもしようとしているのだけど。

だけども、肝心の感覚が全くわからないのだ。

プロの水泳選手の映像とかを見るとこれらの感覚を持っているのもわかる。

別の生き物じゃないかってぐらい綺麗にすいーっと泳いでいる。

その感覚を体験するためにはそこまで上達しないとわからない。

それをVRを使うことで体験できないものかと思う。

 

水泳の技術は何が良いのか、悪いのか、それが主観的にはほとんどわからないところに難しさがある。

一度、その「つかむ」感覚や「乗っかる」感覚がわかれば上達も早くなるんじゃないかと思う。

そんなことを期待している。

技術料の対価

先日、乗っているロードバイクが調子悪くなったから自転車屋に持って行った。

 

その自転車屋は基本はフレームから店で組み上げるって感じのセミオーダーメイド?な感じで売っているお店。

5年ぐらい前に10万円以上するシングルギアな自転車を買って以来、何かあれば行っている。

ロードは中古で買ったもののコンポーネントを2年前にこのお店で頼んで組んでもらった。

顔は覚えられているかぎりぎりって感じの関係。

 

今回、自転車は後輪のギアを変えるリアディレイラーあたりの不調。

変な音がなったり、ギアを変えても反応がなかったり。

持ち込んでそんな話をしたらすぐに「ワイヤーの伸びですね」と。

ちょうど2年前にコンポーネントを組んでくれた人が。

「お店の中見て少し時間つぶしてもらってたらすぐできますよ」

と言うので言われるままに欲しいものを見ていたら本当に終わった。

 

で、10分も見てたら終わった。その料金が2,000円。

安いと思った。

持っていく前は原因がよくわからないし、 輪行でぼこぼこぶつけている自覚もあったから一旦外して調整かなぁ、って。

そしたら預けて後日、料金も5,000円はいくだろうなぁと思っていたのでこの結果は嬉しい方向に意外だった。

 

この時、10分で2,000円の売り上げをあげているわけだけど、これが技術料ってやつだね。

たまに見る話で、水道か何かの故障で呼んだ水道屋が5分で直して数万、みたいな話。

すぐにわかるのはその知識があって、すぐに直せるのは技術と経験があるから。

そんな感じで満足しながら帰りつつ考えた。

 

ワイヤーの調整ついでに自分でも調整しやすいようにしてくれた(らしい)とか、ギアチェンジに違和感があったらワイヤーを疑う、とか客は知識を身につけてしまった。

この知識もセットで2,000円てちょっと安すぎない?と思った。

ワイヤーの調整方法とかもきっと調べればすぐにわかるのだけど、調べるためにはあたりをつけるために知識が必要。だからきっとこれを知る前だったら見つけられなかったと思ってる。

 

ただ、今回の対応が親切過ぎて次から同じ件では行かなくてもなんとかできるきっかけになってしまった気がする。

素人ではできないことがあるとは言え、こうして段々と客が知識を付けて売り上げは大丈夫なのかなぁとか他人事ながら心配に思ってしまう。

 

とはいえ、きっとこれはこれでうまくいっているのだと思う。

なぜなら今回、それらの知識と一緒にお店に対する信頼を強くしたのだから。

今後、自転車で大きな買い物があればやっぱりその店に行くだろう。

昔から言われる損して得取れってやつを実践しているのだと思う。

 

そんなことをスムーズになったギアを切り替えながらほんわりと考えた。

プログラムってなんだろう?

この問いに対する答えを自分の中で明確にしないといけない気がした。そして納得感がある形でまとめられたので言葉にしておく。

 

プログラムとは何か?

この問いの最初の回答は「コンピュータへの指示書」である、ということ。

コンピュータはすべからくプログラムに書かれた通りに動く。

動いて欲しいように動くのではなくて、書かれた通りに動く、なんてのはよく言われること。

最終的にプログラムは0と1で構成された機械語と呼ばれるものに変換される。

それはもう人には読めない、まさにコンピュータに指示するためだけにあるものと呼べるだろう。

これがプログラムの本質であり、役割であり、絶対に忘れてはいけないことになっている。

 

次に考えるのは「動かしたいことの設計書」である、ということ。

プログラムを記述するのに使うプログラミング言語はどんどん新しいものが作られている。

それぞれ作られた目的はあるが、基本的には機械語は人には読みにくいのでもっと読みやすくしたい、ということがある。

それは表現したいことを表現しやすいものを作る、ということになる。

人間が話したり書いたりする自然言語でも言葉によって表現しやすいことが異なると聞く。(外国語に対してそれを自信もって主張出来るほどは精通してないので伝聞でしか言えない)

例えば、日本語よりも英語の方が論理的に表現できる、と言ったことだ。

そうして発展してきた結果、昨今のプログラミング言語オブジェクト指向と呼ばれ、構造をオブジェクト=モノとして表現してそれらの間で情報をやりとりすることでソフトウェアは構成されている。

その結果、プログラムはモノとモノとの関係を表現し、その間のやりとりを設計することになった。

「利用者」というモノがあり、その利用者が「ブログ」というモノを持ち、ブログはさらに「記事」というモノを持つ。

そうしてソフトウェアが成したいことを成すためための構造を設計している。

 

最後に、最近感じるようになったプログラムとは?の問いへの回答は「メッセージ」である、ということ。

上記の設計書としての部分もそうだが、その中の一行一行がメッセージとなっていると感じている。

よく仕事でコードレビューをすると「読みやすい」「読みにくい」ということをコメントする。

どんなコードがそれに該当するかは触れないけれども、その読みやすさを含めてプログラムは後から読んだ人へのメッセージになっていると感じる。

例えば、変数名がtypo(誤字)しているものを見れば、そこには「後から読むことはどうでも良い」というメッセージを感じてしまう。

最初の「指示書としての役割を果たせば良い」というメッセージを感じる。

プログラムは基本的にどんどん改修されて形が変わっていく。後から改修するためにはまずは何をしているかを読まなければいけない。

その読む人のことを考えていないから誤字をするし、読みにくいと思えることを書いている。そう感じてしまう。

これはある程度被害妄想に近いものであることは自覚しつつも、自身を振り返ると確かに後のことより今のことしか考えていないコードを書くこともゼロではないから根拠がないものとも思っていない。

 

プログラミングには「明日の自分も他人と思え」という言葉もある。

作っている時はその背景があり、意図があり、それを理解していても残さなければいずれは忘れてしまう。

それらを忘れた自分は他人である。

そうなってから読んでももはやわからない。

自分が過去に書いたプログラムを読み返してこれは書き直さないといけないと思って書き直した結果、ほとんど同じプログラムを生み出したことがある。

これは背景にある制約によって、望まないけれども読みにくく書き直したくなるようなプログラムを作ってしまった、というケースだ。

(自分が成長したり、より対象を理解することで良いものに出来る可能性も十分にある。)

 

この回答を出した時、それを成せていない人についても考えた。

というより、この問いを考えないといけないと思ったのは、指示書としての成果物をレビューすることが増えたからだ。

「このままでも動くのになぜこんなに指摘をしなければいけないのだろう?」と疑問に思ってしまったのだ。

おそらく、そういう人たちは能力や経験が足りずその視野を持つことが出来ないのだろうと思っている。

(あるいは、自分のレベルが低くて逆に理解出来ていないケースもある、という可能性は捨てていないが話が進まないので無視する)

理解できるようになるためには、良いものと悪いものをたくさん見て、自分で良いと思ったり悪いと思ったりしながら、人の考えも聞いて作り上げていくものだろうと思う。

自分が教える側になる、というとおこがましいようだけどそういった考えが必要なのだろう。

 

このメッセージになる、という考え方はプログラムに限らないとも思った。

おそらく、人が作った生産物のほとんどはその本来の役割の他に、その手の経験のある同業者にしかわからないメッセージを持っていることだろう。

あまり例は思いつかないが、自分の仕事以外で関わった範囲では、保険の契約にそれを感じていた。

友人が保険の営業になったことで当時、相談をしながらプランを組んでもらったのだけど、そのプランには自分の生き方を前提としてその生き方を支えるためのプランを組んでもらった。

保険の本来の役割は、掛け金を払って何かあった時に保証すること。だけど、その保証の対象ややり方、掛け金の支払い方法などそれらの一つ一つから「生き方を応援したい」というメッセージを感じていた。(友人だから、ということの他にその手の熱を感じたから契約したのを覚えている)

 

この観点で何かを見れる人をプロフェッショナルと呼ぶのだろうと思う。

自分自身がこれからもそうなり続けると同時にそう言った能力を持つ人と色々と話してみたいと思った。

漫画レビュー:『めしにしましょう』

最近読んで面白かった漫画。

 

わざわざ紹介せずとも既に話題になっているというか、マイナーな漫画な枠ではなくて有名な漫画と言ってもいい感じの漫画。

 

漫画家のアシスタントが主役。漫画を描いている現場でめしを作って食べる、という漫画。

最近、料理漫画が多い印象があるのだけど、それらとはある意味一線を画すとんでもない漫画。

 

料理漫画を適当に分類すると、(1)異世界物、(2)普通の料理、(3)変わった料理、あたりに分類した。

 

(1)異世界

これは異世界に現代料理を出すものと、異世界を舞台にするものにさらに分類が出来る。

前者だと異世界現代日本の居酒屋を開く『異世界居酒屋「のぶ」』なんかがアニメ化したらしく有名。

異世界テンプレな中世ヨーロッパ的な世界を舞台に現代日本で食べられる料理を出していき、ある意味で料理で無双していくという感じの話になる。

後者の代表は『ダンジョン飯』あたりか。

異世界に生息する生物を調理して食べる、という話。異世界=ファンタジーが基本で、ファンタジー生物の生態まで踏み込んで設定が作り込まれていると魅力的。

他には『空挺ドランゴズ』なんかも伸びてきている。

 

(2)普通の料理

おおよそほとんどの料理漫画をここに分類してしまう。

作っている料理は敢えて作り方を書かずとも作れる物が多く、この分類は登場人物の食べた時の美味そうな表現やストーリー、うんちくなど普通の料理をいかに普通じゃないように見せるか、というのがポイント。

最近だとジャンプの『食戟のソーマ』なんかはジャンプらしい熱のあるストーリーと少年誌らしいエロで面白くなっていると思う。

 

(3)変わった料理

今回紹介している『めしにしましょう』を入れるために作った分類。

他にあまり思い浮かばなかったのだけと、一つあげると『サチのお寺ごはん』。

OLが日々に悩みながらお寺で相談しつつ、精進料理を作って食べる。

ストーリーとは置いておいて、毎回精進料理を作るところに価値がある。

精進料理なんて食べたことも作り方も想像も出来ない。例えば、大豆で出汁をとった味噌汁なんかが出てくる。

 

さて、そんなわけで適当に分類したのだけど、『めしにしましょう』の何が変わっているかというと、とりあえず以下のブログを読んでください。

negineesan.hatenablog.com

 

カツ丼を作って食べたという話なんだけど、肉が…どういう大きさだ。

このブログ、『めしにしましょう』の作者のブログである。

いくつか見ていくとこの人はなんだかとんでもない大きさのめしばかり作っている。

漫画ではこれら、作者が実際に作っためしが出てくるのだ。

どれもこれもうまそうというか、強そう。

食べたい。

 

人を驚かせるようなめしを食べたい人はぜひ読んでみると良いと思う。

5月31日まではKindle版1巻が無料だったと思うので興味があればどうぞ。

 

カナヅチが泳げるようになった歴史の振り返り

ここ数年、市民プールに通っている。

多い時で週に一度、土日のどちらかに行って、少ない時は季節一つ分ぐらい行かなかったりもしている。

最近、泳いでいてうまくならないというか、成長を感じなくなってきている。

何事も出来るようになればなるほど、次の段階に成長するのに時間がかかるものだけど、そのせいでモチベーションが上がらないのでこれまでのことを振り返って改めて自分の成長を実感してみようと思った。

 

振り返りの最初は就職した時期ぐらい、にしてみる。

この頃、泳げなかった。

正確には学生時代の体育の授業とかで4泳法がどんなものかは知っていたし、それらの泳ぎ方っぽい動きはできたと思う。

しかし動きが出来ることと泳げることは別だ。

クロールは息継ぎはできなかったし、平泳ぎも溺れないようにもがいているのと区別ができないほどだった。背泳ぎは沈むし、バタフライに至っては腕を回せない。

プールで泳げば、壁を蹴ってから10mぐらいは進めただろう、という程度。

そんな状態なので海や川など水があるところに行きたい、という気持ちは全くなかった。

学生時代に「みんなで海に行く」なんてこともしていたが、正直海で周りほどテンションが上がることはなく、テンションが上がった振りをしていたような気がする。

あるいは、「みんなでどこかに行く」こと自体を楽しむことで海から目を逸らしていた気もする。

 

変わったのは就職して何年目かに伊豆諸島に遊びに行った時だった。

海とは関係なく非常に楽しかったのだけど、海も楽しかった。

当時「海を楽しいと思ったのは初めて!」と非常に楽しそうに話したのを覚えている。

綺麗な海、足にはフィンをつけて顔にはゴーグルとシュノーケルをつけてふわふわひらひらと泳ぎながら海の中を見るのが楽しかった。

溺れるしかなかった海で自由に行動出来ることが非常に楽しかった。

 

その翌年も泳げないままではあったけど、同じようにフィンとシュノーケルで伊豆諸島を楽しんだ。

もちろん浮き輪も手放せなかった。

そこでふと「泳げた方が楽しいかも」と思った。

今思えばこれが現在に繋がる転機だった。

 

さらにその翌年も伊豆諸島に遊びに行くことは決まっていたので週末にプールに通うことにした。

春ぐらいから数ヶ月通って平泳ぎが出来るようになった。

その年は海で砂浜から見えるぐらいの遠くにある岩場をぐるっと回ってまた海岸に帰って来る、ということが道具なしで出来るようになっていた。

これも嬉しかった。

 

その翌年は泳ぎには成長はなかったが、ダイエットということで夏場はプールに通っていた。

成長はなかったが、それでも長い時間泳ぐことは出来るようになっていた。

30分とか40分とか止まらずに平泳ぎをし続けることが出来るようになった。

 

次の転機はその翌年。

ダイエットのためにこの年も泳いでいた。

思いつきでトライアスロンを始めることにした。

トライアスロンだと基本的に泳ぎはクロールになる。

(その後、トライアスロンで会った人と話して平泳ぎの人もそれなりにいることを知るがそれはまた別の話)

クロールは先に書いた通り、形は知っていたが息継ぎができなかった。

まずやったことは、泳ぎ方の本を数冊買った。

それからはひたすら練習。

本を読んで、プールで溺れて、本を読んで、プールで溺れて、動画を見て、本を読んで、プールで溺れて、を繰り返した。

初めてのトライアスロンに出る時にはクロールで数百mはなんとか泳げるようになっていた。

トライアスロンではプールで750m、ただ、クロールだけで泳ぎきることは出来ず頻繁に平泳ぎを入れて息も絶え絶え、なんとか泳ぎ切った、という感じだった。

 

その次の年に向けて冬もプールで練習した(ような気がする)。

プールでなら安定してクロールで泳げたし、多少息継ぎに失敗しても泳ぎながらリカバリできるようになっていた。

この年は初めてのOW(オープンウォーター:要するに海)でのスイムが入るトライアスロンに出た。

この大会は毎年毎年、スイムが中止になるかならないかの境目ぐらいまで波が高くなる大会だった。

正直、開始10分で波の高さを見て心が折れていた。

途中で何度も海に浮かんでるライフセイバーの浮き輪の船に助けてもらって休憩しつつ、リタイアしたい気持ちを抑えながら泳いでいた。

息継ぎをすれば波がやってきて空気ではなくて海水を飲み込み、海の中を見れば底が見えず、陸地からも離れている。

溺れれば死ぬ、ということを常に感じながら必死に泳いだ。

1,500mを泳ぎきる前に時間切れとなって途中で大会側の船に水揚げされた。

 

他の参加者に話を聞けば関東近辺ではこの大会より波が激しいところはない、とか。

堤防に囲まれた海ではなくて、外からの波がそのまま打ち寄せるような海岸だった。

DNF(Do Not Finish:途中棄権)となったのが非常に悔しくて、来年こそは泳ぎきるという目標を定めつつも波に対するトラウマを抱えた大会になった。

なお、翌日の海は波が大変穏やかだった。

 

この年の冬、独学に限界を感じて水泳教室に入会した。

が、全然通わなかった。

だって寒いし遠いんだもん。春になったら退会した。

それでも数回通った中でいくつか収穫はあった。

その一つは背泳ぎが練習できる程度にできるようになったこと。

それまでは上を見ながら沈んでいくだけだったのが、浮かびながら前進できるようになった。

また、自分のクロールの泳ぎ方に大きな欠陥があることを疑っていた。

トライアスロンで泳ぎ終わって自転車に乗ると数分で腰の中の筋肉と思われるあたりが激痛に襲われるのが毎回だった。

これの原因はクロールの泳ぎ方にあるのではないかと思い、そのことを相談しつつ見てもらったがその原因となるほどではなさそうだった。

 

そんな調子で収穫はあったもののあまり真剣に練習はせずに昨年泳ぎ切れなかった大会にもう一度挑戦した。

海が荒れすぎてデュアスロンになっちゃった(デュアスロントライアスロンのスイムをランに変えたもの。このように天候などが原因で泳げない時にしばしばトライアスロンから変更される)。

この時も自転車では腰痛があったので原因は泳ぎではないとわかったのは余談。

なお、翌日の海は波が大変穏やかだった。

この大会は海の波を鎮める儀式か何かなんだろうか。

 

それが昨年のこと。

それからもプールには通って泳いでいる。

泳ぎは大分安定してきたとは思う。

とりあえず1km、みたいに長く泳げるようにはなった。

ただ、非常に遅い。

早く泳ぐためには回転をあげることと上手に泳ぐことがある。

回転をあげるのは簡単だけど、その回転で長距離を泳ぐのは厳しい。そのため、徐々に上げられるように練習するしかない。

上手に泳ぐことの方を考えているのだけど、こちらがよくわからない。

文字で、画像で、動画で、説明をインプットするも肝心の泳いでいる最中の自分が見えないから結果をフィードバック出来ない。

プールだから自分で自分を撮影なんてのも難しい。

そんなわけで最近、泳ぎの上達が見えなくなっていた。

 

こうして振り返ると何年も通っているつもりだったけど、その時々で目標が違うことがわかる。

現在、行き詰まっているように感じているのは早く泳ぐために上手なフォームで泳ぐこと。

泳ぎながらずっと自分の泳ぎを感じられるように気をつけてやってきたが、早く泳ぐ、という目標で見るようになったのはつい最近の話。

最初は泳げない状態から泳げるようになる、という出来なかったことを出来るようになる、という話だったからわかりやすかった。

今は出来ていることをもっと上手に出来るようになる、ということだから実感しにくいし難しい。

そのことを理解して慌てずに引き続き練習していこうと思う。

 

そもそも泳げるようになった後、その後も泳ぎに通っていたのはダイエットのためだった。

トライアスロンを始めたことで泳ぐことの目標が上達になって、そのためにどうしたら良いかあれこれと考えている。

この状態になっていることで既に当初のダイエットのために泳ぎ続けるということを考えずとも、泳ぎ続けることを達成出来ている。

悩みながら練習するだけで既に目標を達成している勝者なのだ。

振り返ってそれを実感したのであまり悩みすぎずやっていこう。

「年のせいかな?」と思うとき

努力の積み重ねをしてこなかった理由を自分以外に求めたいとき。

 

ソフトウェアエンジニアの仕事をしている。

最近はフリーランスで入れる案件を探している。

およそ4年前にも同じような立場で仕事を探していたことがある。

当時と比べるとなんだか仕事が見つかりにくい。

ふと「年のせいかな?」って思った。

当時は20代の後半、今は30代の前半。案件に入ると以前に比べると「年上の部下」みたいな状態になる可能性が非常に高くなった。

それをもって「年のせいかな?」と思ったわけだけど、同時にその間の仕事の積み重ねをしていればその実績を使って以前よりも見つけやすい状態になっていることもできたはず。

そして積み重ねていない自覚がある。

他の仕事に比べるとソフトウェアエンジニアって自分の成果を見える形にしやすい。

そのことは何年も前にわかっていたのに積んでこなかった。

それを自分の責任にするのを避けたい気持ちで年のせいにしたのかもしれない。

実際には案件は見つかったり見つからなかったり運次第なところもあるからなんとも言えないけども。

 

体力がなくなった、かどうかはわからないけども学生時代に比べると太った。

走れる距離や速さも落ちている気がする。

日々の暮らしの中で運動することが減っている。

ここ数年、トレーニングをしてはいるけれどもしているつもりで全然していない。

気持ちは週に2, 3回走ろうとしているけど、実際には二週間に1, 2回ってところ。

「ここ数年」の最初の頃はもうちょっと頻度が多かった。

そんな数年前と比べて体力が落ちて「年のせいかな?」って。

ただの運動不足、練習不足です。

 

頭が悪くなった。

考える力が必要なことをしてみると、昔と比べて全く思考が続かないし、新しいことの理解も遅くなった。

高校生の頃はなんだか難しい論理パズルみたいなものを三日間考え続ける、みたいなことができた。

最近は、数時間も考えたら答えを知ろうとしている。

その手の考える覚悟がないときはもっと早い。

考えること自体をしなくなった気がする。

頭に負荷のかかることをしなくなった。

 

昔と比べると体や頭の機能が落ちるのは本当に年のせいってこともあるだろうけど、「年のせいかな?」って自分では変えられないことに原因を求めるのは悪手だろうと思う。

過去にできていたことができなくなっているなら、過去にやっていたことをしなくなっただけだったり、すべきことをしなかった結果なのだから、今からでもまた始めるしかない。

社会性昆虫と組織と勝利点(3)

今回は、「みんな自分の利益を求めて動く」ということを「勝利点」という概念を使って抽象化してみる話。
「利益」という言葉を使うとそれはどうしても金銭についての話に聞こえてしまうため、見方が一面的になる気がする、というのと「あなたは利益のために動いている」と言われたら守銭奴と言われているような気がして言いたいことを受け取られないのではないかと思ったから敢えて違う概念を取り入れてみることにしてみた。

まずここで言う「勝利点」とは?
主にアナログゲームで勝つために集める点数のことを指す、と定義しておく。
そして勝つためにはこの勝利点を「誰よりも早く規定の点数集める」か「ゲームの終了時点で誰よりも多く集めている」のどちらかとなる。

前者の例としては「すごろく」が挙げられる。
誰もが知っているすごろくは、出た目の数だけ駒を進めて、最初にゴールに入った人が勝ち、というとても単純なゲームだ。
この出た目の数で進んだ距離を「勝利点」と定義すればすごろくは、サイコロを順番に振ってその出た目の合計が規定の数(=ゴールまでの距離)に最初になった人が勝ち、と言い換えることができる。

後者の例としては「麻雀」を挙げよう。
麻雀は半荘と呼ばれる回数だけプレイして、その回数が終わった時点で最も多く点数を集めた人が勝ち、というゲームになる。
(半荘以外もあるとかハコテンとかそういうことは無視する)

この勝利点の集め方の違いはプレイヤーのゲームの遊び方の違いに直接関係する。
先に例を挙げたすごろくだが、このプレイ中、多くの場合はサイコロが大きい目が出るように祈ることになる。
これは勝利点を早く集める、という目標に対しての最適行動を選んだ結果だ。
このすごろくとよく似たゲームに人生ゲームというものがある。
人生ゲームは人生のように子供自体から始まり、ゴールまで年を取るような設定でできている。
そしてその勝利点は多くの場合、「持っている資産」となる。
これによってすごろくの遊び方が変わる。
すごろくであれば分かれ道があった場合、どちらの方がより早くゴールできるかで判断することになる。
(すごろくで分かれ道があるなら、それぞれの道にNマス進むというマスがあり、それを踏めるかどうかで判断するだろう)
それに対して、人生ゲームは最終的に資産を持つことが勝利に繋がる為、ゴールを遅らせてでも資産を稼ぐ、というプレイをするようになる。

人生ゲームもすごろくもどちらもランダムに数字を出して、出た目の数だけ駒を進めるゲームなのに勝利点の設定次第で全く異なるゲームとなる。
この観点を前回の話と絡めつつ、組織について話をしようと思う。

社会性昆虫、というアリやハチの話をした。
前提として生物は自らの遺伝子を最も広げられるような生態をしている、ということを真としておく。
(『利己的な遺伝子』あたりで書いてあるような話)
社会性昆虫の不思議な点は、生物は自らの遺伝子を広げるために行動しているはずなのに、自ら生殖を行わず自らの生よりも集団の生を優先する点にあると思う。
自分の遺伝子を広めたければ集団のために命を使うのではなくて、自分の子孫を作るべき、という話になる。
自分の子孫であれば自分と同じ遺伝子を半分持っている。しかし、自分の親から生まれた兄弟たちは確率的に半分しか自分と同じでは無い。
両親の遺伝子の半分が子には遺伝する。
例えば父親の遺伝子の半分を自分はいる持っている、兄弟の場合は父親の半分でも自分と同じ半分が選ばれるとは限らない。
ある特定の遺伝子AとBがあった時、自分に遺伝したのがAだとしたら兄弟はAとBのいずれかを半分の確率で持っていることになる。各遺伝子についてこのように考えられる為、兄弟の間では確率的に父親から遺伝した遺伝子のうち半分が一致していると考えられる。(自身の四分の一が一致している)
また、母親に対しても同様になるため、全体でみると父親からの遺伝子(全体の50%)のうち半分が兄弟と一致(全体の25%)し、母親からの遺伝子(全体の50%)のうち半分が兄弟と一致(全体の25%)すると思われる。
そのため、確率的に半分の遺伝子が一致する兄弟姉妹よりも、確実に遺伝子の半分が一致する自分の子供の方を大事にする、という行動が「自らの遺伝子」を広げるという勝利点を稼ぐ最適行動となる。

アリやハチの場合、この遺伝子の伝わり方が異なる。
自分の子供よりも同じ女王から生まれた姉妹の方が遺伝子の一致率が高いのだ。
具体的には「半倍数性」でWikipediaを見ていただく方が良い。説明できるほど理解しきれていないのと説明しだすとそれだけで非常に長くなるため、上記の事実以外については触れないことにする。
さて、姉妹の方が遺伝子が一致している、ということは自分が生殖して子供を作るよりも姉妹を増やす方が自身と同じ遺伝子が増えることになる。
こうして遺伝のルールを変えることで、「自らの遺伝子を広げる」という勝利点を達成するための最適行動が集団の繁栄となる。
勝利点に関するルールを変えることで行動が変わる、という例になると思う。

では組織においてはどうなるか。
会社という組織では、多くの場合、「金銭的な利益を稼ぐこと」が勝利点となる。
そのため、会社全体の判断は金銭的な利益が大きいものを選択するようになる。

しかし、会社の中で働く人の勝利点は異なる。
まず、経営者(単純化するため株を最も持っているとする)の場合、「株の価値を最大化すること」になる。
これはほとんどの場合、会社自身の勝利点と一致する。
しかし、株の価値が最大化することが勝利点なのでそのために金銭的な利益をあげるよりも容易な方法があればそちらを選ぶことになんら違和感はない。
そのための方法はいくつもあるが、中には社会に不利益を与えるものもある。それらを社会の勝利点のために犯罪とし、防ごうとしている。
(社会も当然何かしらを勝利点としているが、それについてはここでは触れない。掘り下げたい方向は個人であるので話の展開が逆方向になるため。)

そして、従業員ではどうなるか。
従業員が会社から得るものの代表例は当然「給与」であるため、「給与を最大化する」ことが個人の勝利点となる。
給与を最大化するためには、会社に対して利益を示す、昇進する、などがある。
昭和の日本(とくくるにはちょっと大きいが雑でも大きくくくる)では会社の利益のために尽くせばそれは達成できた。
そのため、会社に対して忠誠を誓い、仕事に対して命をかけていた。(と聞いている)
しかし、現代ではその手段は非常に難しくなっている。
利益を出すための労力が大きくなり、その結果得られる給与の増額は小さくなっている。
給与を増やすことが難しい以上、次に考えることは「現在の給与を効率よく得る」ことになる。
つまり、「仕事に労力をかけず、給与を減らさない」ことが最適行動となる。

このように会社の勝利点を得ることと、従業員の勝利点はすれ違っている。
これを調整するのが会社、組織の運営だろう。
従業員が勝利点を得ることで会社が勝利点を得るようなゲームを作ることだ。